眠れよい子よ
Schlafe, mein Prinzchen, schlaf ein

クローゼットの奥に、1枚の赤いカーディガンがしまってある。

これはTABIが子犬だったころ私がよく着ていたもので、袖や裾など噛まれてボロボロ。もう普段にもちょっと着られない。でも、これを取り出すと、TABIは目をキラキラさせ耳をピンと立て、尻尾を振って大喜びする。鼻をうずめて匂いをかぎ、なつかしそうに目を細める。匂いの記憶を探るように。

生後7週間でTABIが我が家にやってきたのは、1月の厳寒期だった。
きっかり3時間おきにトイレに行く子だったので、夜も真夜中と早朝に起こされた。私はパジャマの上にこの赤いカーディガンをはおり、ダウンコートをひっかけ、防寒ブーツをはいて吹雪のバックヤードにTABIを出し、トイレをさせた。それから粉雪まみれの子犬を胸に抱き、コートとブーツを脱いで暖炉へと走り、冷たくなった体を暖めた。TABIは、カーディガンに顔をうずめてじっと私の顔を見ているが、次第に目を細めて夢の世界へと入っていく。

当時夫は長期出張中で、家は私とTABIだけだった。
慣れない子犬育てのストレスで、私には子犬との生活を楽しむ余裕はあまりなかった。だが今から思うと、あれは母犬を恋う子犬と母犬の代わりを努めようとする人間の女とが寄り添って暮らした蜜月期間であったかもしれない。母犬や兄弟犬と引き離されたTABIにとって、私の胸が唯一、安心して眠れる場所だったのだ。

何度も洗濯して、私が匂いをかいでも粉石鹸の香りしかしないカーディガン。だが、TABIはそこにわずかな私の体臭をかぎ、子犬の頃の記憶が蘇るのだろう。暖炉の火のほのかな明かり、温かな懐の心地良さ、静かな子守唄…

犬の嗅覚は鋭い。
ケベック州で唯一の Arson Dog (火事の出火原因調査に使われる犬)であるMALCOLMは、20種もの可燃性物質を正確に嗅ぎ分けることができる。プールに落とした、たった一滴のガソリンの匂いも、彼は見逃さない。これは、科学が発達した現在でも、どんな機械にも真似のできない特殊な能力である。

散歩中に電信柱にマーキングされた他の犬のオシッコの臭いを嗅ぐことで、犬はその見たこともないよその犬の性別・大きさ・性格・年齢・体調や心理状態までもつかみとることができるという。ごくごくわずかの残り香でも、犬にとっては膨大な情報を搭載したコンパクト・ディスクのようなものなのだ。

そして、既知の匂いを嗅ぐことは、犬の記憶の扉を開ける鍵となる。それが楽しい思い出であれば犬は全身で喜びを表現するし、好ましくない過去を呼び覚ますものであれば警戒し身構える。

私は何度もこのカーディガンを処分しようと思ったし、実際リサイクルボックスに入れたこともある。しかし、その度に気がつくといつのまにかTABIが私の足元にいて、
「それぼくのお気に入りだよ。捨てちゃうの?」
と、目を丸くして私を見上げるのである。
だから、今でもとってある。

TABIの寿命が私より先につきる日が来たら、このカーディガンでこの子の体を包んで土に還してやろうと思っている。
子犬のころと同じようにおでこにキスをして、サヨナラの代わりにこう言おう。
「ぐっすりおやすみ。楽しい夢を見るのよ」

参考:TVシリーズ "Dogs With Jobs" episode 9 : Arson Dog Malcolm

(2001年8月30日)

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